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『軌跡』(続)■6・時代を生きる

                                ペトロポリス大聖堂



   □■□ 第6章 時代を生きる □■□  


「ガタン!」という強い衝撃を受けて身体は一瞬飛び上がり前後に激しく揺れた。
…と同時に機内の天井から何かが落ち、乗客からウォッという驚きの声が上がる。ブロック状にはめ込まれた天井の一部が衝撃の強さで外れ落ちて来たのだが、幸いにライトなどの機材の配線や細いひも状の物でつり下げられ落下はしなかった。またその直下が空席だったことも幸いした。乗務員の何人かが駆けつけ元のようにはめ込もうと試みるがかなわず、そのままそれぞれの仕事の定位置に戻り、乗客も何事も無かったかのように成田国際空港に降り立っていった。私も30時間を超えての長旅の疲れを全身ににじませながら到着カウンターへと向かっていった。

それは奇しくも8月6日の夕方のことである。
私は兄夫婦が住むブラジルに10日間滞在し帰ってきたばかりだった。
兄と私は9歳も離れている。父の後を追うかのように外交官の道を選んだ兄は赴任先のブラジルで現地の大学に通いながら語学研修をしたようだ。そして出会った友人であるブラジルの人と結婚し苦楽を共にしながら人生を歩んで来た。二人とも年老い、それぞれに病を抱えて暮らしている今、近々会いに行くからと言い続けていた私に、二人の金婚式の案内が届き「今来て欲しい」のリクエスト。
二人の娘である姪に急遽同伴させてもらい25年ぶりの再訪を果たすことができた。

過日、友人との話しの中で思い出させられたことがあった。
第2章『遠い記憶』に書き忘れたことだった。それはこの兄の体験談である。
思いがけずドキッとさせられた6日の出来事から3日たった今日、9日の記憶にまつわる出来事をやはり記しておこうと思う、69年の時を経た今。

長崎の市内から島原へと父以外の家族は疎開していた。
外国で幼児期を過ごし、ある意味裕福な生活も体験したであろう当時11歳の兄にとって、里山の田舎暮らしは苦痛であったのだろう、姉の話では学校でいじめにもあっていたらしいとのこと、本当にいじめかどうかは分からないが、なかなか馴染まないよそ者の兄が土地の子供の中にうまくとけ込めなかったのは事実なのだろうと思う。

ある日兄は家出をした。
まだ小学5年の子供が突然いなくなったので近所中を巻き込んで大騒ぎとなったがどこを探しても見つからない。父不在の中、母の動揺はいかばかりだったか知る由もないが、戦時下でもあり現代のような情報手段も無い中、ただひたすら無事を祈って待つしかなかったのかも知れない。
探し尽くして疲れ果てまんじりともせず一晩を過ごした家族の元に、兄が一人の女性に伴われて帰ってきたのは次の日の夕方遅くのことであった。その人は彼が疎開する前、長崎の学校で受けもってもらった担任だった。「いやー、本当に驚きました、夕べ遅くに誰かがドンドンドンドン玄関をたたくのでこんな時間に誰かと思って出てみたらY君じゃないですかー」と、先生は経緯を話して下さったという。それによると、どうしてもどうしても先生に会いたかったので家の人には黙って出て来た。
疎開先の生活にも学校にも馴染めず、優しくて大好きだった先生が懐かしくて逢いたくてたまらなくなったとのこと。家の金を少し持ち出し、途中までは汽車に乗り、後は線路の上を歩いて長崎までたどり着いたという。
逢いたさ一心とはいえ、おとなしい兄の思いきった行動にみんなは唖然としたという。
先生は無事に兄を家族に引き渡し、「安心しましたので私は帰ります」と帰ろうとされるのを 母は「汽車がなくなるから泊まってください」と何度も引き止めたという。もう、既に夜が深くなっていた。しかし先生は「明日は校外学習の日ですし、子供達が待っていますから」となんとしても帰ると言われ、「大丈夫、私は大人です。こんなに小さい子が長崎まで来れたのですから心配いりません、朝方には着けるでしょう」と振り切ってお帰りになったという。
それは1945年8月8日の夜のことだった。原爆投下の前日である。

「長崎に原子爆弾が落ちた。長崎が大変なことになっている」との情報が入る。
兄は泣きだし先生を探しに行くと言ってきかない。今は無理だから少し待とうとなだめられ、3日経ってから兄と母は先生を探しに長崎に行った。凄まじい光景を目の当たりにしながら先生が勤める学校や住まいを探したが破壊されたそこに先生の姿はなく、見つからなかったという。いろいろ伝手を使って探すも見つからず、結局は知人に情報提供を頼んで帰ったという。
後日「先生は原爆に遭って病院に担ぎ込まれたが、一週間、生死の境を彷徨ったあげく亡くなった」との訃報が届く。

あの時、力づくでも引き止めるんだったと母は嘆いた。
そして兄はそれから少し荒れたという。
このことは、私がかなり大きくなった時に母や姉が話してくれたことである。

今回のブラジル訪問で兄と昔話をすることはなかった。
8月が誕生日の兄は69年の歳月を経て80歳になる。彼の中での遠い記憶はいつしか封印してしまったのか、以前何度か問いかけても覚えていないということが多かったので敢えて持ち出さなかった。
本当に忘れてしまったのか、思い出したくないのかは分からない。

兄の住むペトロポリスは、リオデジャネイロから南米のいろは坂と呼びたくなるような曲がりくねった山道を登り門を通って街中に入っていくが、どこか長崎に似た懐かしい雰囲気の漂う場所である。ボルトガル領時代に皇帝が避暑地として利用したことで発展した山間の美しい街並として観光客が訪れる由緒あるところで、古くに建てられた家々は文化遺産として保存が義務づけられている。門には何年から何年まで誰が住んでいたというプレートが付けられ、そのままを維持したまま博物館や学校や住居として利用されている。

ブラジルに来て思った。
兄がここを永住の地として愛しているその理由を。
治安が悪く怖い国として知られていて、勿論そんな荒れた状態をも抱えた国ではあるが、どこの国でも悪の原因は人によらず、人の愚によるものであると思わされる。人の愚かさが人や国や世界や地球を駄目にしていくと。
私はこの旅行で沢山の人とハグをし、右ほほと左ほほを交互にくっつけ合ってキスの挨拶をしてきた。こんにちはもさようならも、初めましてもようこそも、全てこの挨拶に象徴される。
私はあなたに抱擁をし愛を贈ります、何度でも何度でも。
言葉は通じ合わなくても通じ合える言葉があると言って抱きしめてくださった方は、2 日前に弟さんを亡くされたばかりだった。その悲しみへの慰めをこめて私も強くハグをした。くっつき合った胸を通して何かが流れ合うのを感じていた。

結婚50年を祝う金婚式は結婚式のように華やかだった。兄は娘と、姉は息子と手を組み、教会のバージンロードを歩き、長年はめていた指輪で改めて指輪の交換をした。
参列者は二人の人生を讃え、感動で涙した。そして披露宴には80名もの祝いの客が顔を揃えた。
お祝いのプレゼントは毛布でと夫婦は依頼し、自宅には山のように毛布が届けられていた。
暑い国ブラジルには暖房の備えが無い。しかし高地にあるペトロポリスの冬の夜は寒い。だから貧しい人に毛布をプレゼントするために施設や病院に届けるのだという。
2人への祝福の気持ちはこんな形で実を結んでいる。兄たちが特別なのではなく多くの人の意識の中にある行為のようで、殆どの人が高価な物を一枚ではなく、ひとりでも多くの人にと量を選んで持ってきてくれる。そんなに大げさなことではないかも知れない人間愛に根ざした行為に私はただただ感服した。

そしてさらに思う。
ここに集う人々には国境がないのではないかということを。
ブラジルはその昔、ポルトガルの植民地として開拓され、ヨーロッパからの移民を始めとし、西から東から北から南から多くの人が連れてこられたり、移住してきたりして形成された国である。
そんな人々が長年の間に様々に結び付き合っているので、二世、三世、だけでなくハーフ、クオーターといった混血の人も多く、1人の血の中にはいくつもの民族の血が流れていたりする。
兄のブラジルの親族は30人にも達し、いろいろな国にルーツを持っている人が集まるので面白い。姉にはドイツ人の血が流れている。姪にはドイツと日本、そしてブラジルという国が混ざり合っているがもっと遡れば更に複雑になっていくかも知れない。
一人の人間の中で世界が統一されている。そういう風に考えている内に、シュタイナーがいう「統一体としての人間観」に思いがいき着いた。統一体としての自分を認識すれば意識が変化し、取り巻く世界との関係も変わっていくだろう。とても難しいことだけど、世界平和への途はそのことと深く関係しているのではないだろうか。
時代を生きる私たちの課題はこのことにつながっているような気がしている。ただそのことを世界平和と結びつけることは気の遠くなるような作業であるに違いない。しかし人間である以上、この途を歩くしかないのである。

ペトロポリス1
(photo:Sasai@ペトロポリス)

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popo

Author:popo
●笹井鳩子profile

 中央林間にある大和田園幼稚園に6年、横浜鶴見の橘幼稚園に34年勤務。(内28年を園長として、2年を顧問として務める。)
長い間幼児教育の道を歩む中で、シュタイナーの人間学に出合い教育観を深める。
また、経験を通して「人は人の中で人となる」を実感する。
退職後、「自らの手で作る喜びを味わう」・「人が出会い絆を結ぶ」、この二つを実現すべく、創造と交流の場として『創造空間Lula & Popo』を開設。

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