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『軌跡』■3・生々流転



   □■□ 第3章 生々流転 □■□


 世界中が激しく動いていた。きな臭い匂いが漂い、いつでも勃発寸前の地鳴りのようなものが鳴り響いていた。

外交官だった父は、母と姉(7歳)・兄(5歳)を伴い、それまでの任地であったラトビアの日本領事館を離れ次の赴任先であるスウェーデンへと向かっていた。
1940年に入ったばかりのことである。途中、ベルリンを経由したが、その時は既にドイツ兵が移動し始めていて戒厳令が敷かれたベルリン市内のホテルは電気が消されていた。
もちろん、外に出られる状況ではない。1940年というと日本・ドイツ・イタリアが三国同盟を結び、戦時色が色濃い時である。
ベルリンからデンマークへ、そしてスウェーデンには船で渡った。

私の家族が乗った船のすぐ後に出航した船は撃沈されてしまった。
危機一髪で難を逃れた訳だが、しばらく赴任していた独立国ラトビアも、家族がその土地を離れて何ヶ月もしないうちにソ連が侵攻し侵略されてしまった。
ソビエトはバルト三国(ラトビア、リトアニア、エストニア)を相次いで占領してしまったのである。同じ頃、ナチス・ドイツはパリを陥落させていた。
既にポーランドを占領していたナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策は始まっていて、そこから逃れようとリトアニアには沢山のユダヤ人が逃れてきたという。

当時リトアニアの日本領事館で領事代理をしていた杉原千畝外交官は現地を離れるまでの2ヶ月間で大量のビザを発給し彼らの命を救ったと、その偉大な行為がクローズアップされたのは最近のことである。
父と杉原氏とは全く同時期に、隣り合って外交官という職務を遂行していたかと思うと、時代背景がより鮮烈に浮かび上がってくる。大変な時代を生き抜いていたのだなと改めて思い知る。
外交官という役職なのでラトビアでは現地のコックさんや使用人がいたそうだが、中でもソーニャというメードさんとは家族のように親しく暮らしていた。子供思いで優しかった彼女が無事なのかどうか、母は生涯にわたって懐かしんでは安否を気遣っていた。

ほんの少しのタイミングのずれで私の家族の命は危うくなっていたが、ほんの少しのタイミングのずれで守られてもいた。

ストックホルムで下の兄が生まれ、日本でも戦争が本格化し始めているという情報が飛び込んできていた。
スウェーデンは中立国としての宣言をしているのでここにいる限り心配はないが、父には留まることが出来なかった。日本人としての血がそれを許さなかったのであろう。
帰国願いを受理され、1 年滞在しただけでスウェーデンを離れ帰国の途についた。
1941年を迎えて間もなくのことだったという。

当時のスウェーデンでは、驚いたことにみそ汁を缶詰で売っていたと母から聞いた。
醤油や味の素まであったというが本当だろうか、とにかくそれらを持って船でレニングラード(現在はサンクトペテルブルグ)に渡り国際列車でモスクワへ。
モスクワでは日本人の奥様たちがおにぎりを差し入れてくださった。

外交官というと国を代表しての職務である。VIP 待遇であるのは当然であったのだろう、父たちは国際列車の豪華な個室を提供され、専属のコックが腕を振るって日本食を作ってくれていた。
しかし、ここから状況は一変する。
国際列車は突然停車し、故障をしたとの理由で普通列車に乗り換えさせられたのだ。
一等車の個室ではあったが食事はロシア人と一緒に食堂車でたべることになった。その食事は固いパンとギトギト油の浮いたスープ…、全く口に合わない。
幸い個室だったこともあり、外に出しておいたコチコチのおにぎりを温め、缶詰のみそ汁と国際列車のコックが焼いて持たせてくれたカステラを食べて過ごしたという。

シベリア鉄道を列車はひた走る。

途中駅で突如5~6 人のゲーペーウー(ソヴィエト秘密警察)が乗り込んで来た。
そして、乗客の荷物を片端から開け容赦なくかき回し始めた。その中のひとりが私の家族をめがけてくるなり有無を言わさず荷物を開け始めた。
外交官の私物(トランクには針金がかけられ封印がされている)を開けてはならないと国際条約で決まっているにも拘らずパチンパチンと針金を切っては開けていく。
大柄の厳つい女性であったが、強面の強硬な態度が緊張と萎縮を強いる。

父は帰国の際、一人の新聞記者から何やら分厚い封筒を預かっていた。 
それを見つけられるのではないかと母は怯えていた。
父はその封筒を調べ終わったトランクの中にすばやくすべりこませたので見つかるのを避けることができた、と母は私に話してくれたが、当時8歳だった姉の記憶では、父が隠したのは生後半年の赤ん坊のおむつの中だったという。どちらが正しいのかそのことを知る人は今は誰もいない。

父はロシア語が話せた。
そんなことも幸いしたのだろう、無事、マンチュリーのロシア側国境に朝、到着する。
厳寒の土地は零下何度という凍えるような寒さであったらしい。そこで夕方まで待たされ別の列車でマンチュリーの満州側国境に向かった。
列車は窓のブラインドを降ろし、中の明かりを消し、ローソクの灯りで移動する。
駅に着いたのは夜中だった。
なのに駅では何人かの日本人が出迎えてくれて日本人経営の旅館に連れて行ってくれた。
そこで三日間ゆっくりと休み、満州鉄道でハルピン・新京を経て、大連から船で故郷の長崎へと帰り着く。

それはスウェーデンを出発してから一ヶ月後のことであった。

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popo

Author:popo
●笹井鳩子profile

 中央林間にある大和田園幼稚園に6年、横浜鶴見の橘幼稚園に34年勤務。(内28年を園長として、2年を顧問として務める。)
長い間幼児教育の道を歩む中で、シュタイナーの人間学に出合い教育観を深める。
また、経験を通して「人は人の中で人となる」を実感する。
退職後、「自らの手で作る喜びを味わう」・「人が出会い絆を結ぶ」、この二つを実現すべく、創造と交流の場として『創造空間Lula & Popo』を開設。

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