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『軌跡』■2・遠い記憶



   □■□ 第2章 遠い記憶 □■□


 あの瞬間を私は知っている。
遠い遠い記憶ではあるけれど、確かに私の中に刻み込まれ、私の中で生き続けている記憶。
ガヤガヤとした人の声、近所の人たちが小高いところに集まって何やら騒いでいる。
私の目線は高いところにあるから、きっと誰かに抱っこされているのだろう。
大人たちが指差す方には、煙のような黒い色がかたまりになって広がって見える。夕焼けとは違う不気味な赤さも混じって見える。

私はその時はまだ2歳と7ヶ月だった。そんなに小さいのだから記憶に残っている筈がない、と誰かに言われた。
記憶と信じているそのことは、後日人から聞いた話が印象として残り記憶と錯覚しているのだと。
そうかも知れない…と私も何度もそう思った。しかしどこかでそれを否定するものがある。いや確かに私はあの瞬間に立ち会っていたんだ…と。

昭和20年8月9日、広島に続いて長崎に原爆が落とされた時のことである。

原爆という言葉を聞くたび、記憶だけではない何かが私の奥で疼きだす。それは感覚体験といえるものかも知れない。
いつもとは違う異様な雰囲気やざわめきは抱かれている私にも伝わった。

太平洋戦争の渦中に長崎市内で生まれた私は「ここにいては危ない」と、長崎から直線距離で40キロ離れた島原の西有家という所に疎開し、農家の別棟を借りて生活をしていた。
私が生まれた時には既に任地に赴いていた父は、離れた所から私に「鳩子」と命名し、出生届を出し、家族に疎開するよう指示をしたが、私が4歳になるまで帰ってこなかった。私は父を知らずに育っていた。

疎開先は自然豊かな田舎だった。
そんなのどかな田舎の上空にも爆音が轟く。緊迫した空気が張りつめる中、抱きかかえられて農家の敷地の片隅に作られた手作りの防空壕のなかに逃げ込んだ、…がこれも感覚記憶として残っているのかも知れない。しかし小さい体の奥底に刻み込まれたこれらの体験は、記憶か知覚か曖昧なまま、遠い記憶となってその後の私に大きく影響をしていくことになる。
幼い私の中に沁み込んだ訳の分からない緊張は、成長の過程で様々に鎌首をもたげていった。

ただ単に極度の臆病者なのかもしれない。しかしこれも、このことをさておいて思い当たる節がない。とにかく、暗いところや怖い話、人が傷つくことやけんかなどは、聞くことも見ることも私には耐えられないことだった。そんな場面に遭遇すると一瞬にして体がこわばってしまう。
なので他の人よりも先に敏感にキャッチし遭遇しないようにするしかないのだが、避けられないこともある。

こんなことがあった。無類の映画好きだった母はまだ8歳の私を映画に連れて行った。母の妹である叔母と従姉妹も一緒だった。まだ映画が何たるかを知らない私は、大好きな従姉妹と一緒なのが嬉しく、気持ちがはしゃいでいた。映画は忘れもしない「黄色いリボン」という有名な西部劇である。騎兵隊とインディアンとの戦い…、私は終始うつむいて見ないようにしていたのだが、時々上目遣いに画面を見て、また下を向くを繰り返していた。。しかしとうとう大声で泣き出してしまった。すると私の鳴き声につられて従姉妹まで泣き出した。母たちはあの手この手で泣き止めさせようとしたが泣き止まず、とうとう映画館を退出することになった。今考えると申し訳ないことをしたと思うが、とにかく怖かった。それ以来、大人になるまで映画を見に行けなかった。
テレビが普及し始めた頃、大人たちが夢中になって見ていたレスリングやボクシングも苦手で、私はその場からひとり離れてその時間が過ぎるのをじっと待った。

長崎に原爆が落とされたのは偶然だったと聞いたことがある。
聞くところによると長崎ではなく、別なところを原爆投下の場所に選んでいたらしい。
だがその上空を雲が覆っていて空から下が見えない、旋回しているとたまたま運悪く晴れていたのが長崎だったのでそこに落としたというのだ。
これは人の話で、長崎は二番目の目標地であったらしい。しかし結局のところ、どこに落とされていてもおかしくない話なのだ。

私が小学6年生の時、原爆資料館と平和祈念像が建立された。
私は先生に引率されて見学に行った。
館内に入るとき恐怖心が走った。見たくない見たくないと心で叫んだが列になっての見学なので逃れられない。
容赦なく飛び込んでくる。目を背けても飛び込んでくる。ガラスや金属、鉄までも、ドロドロに溶けて固まっている。どれほどの熱風だったのだろう。黒こげの死体が転がる写真、廃墟となった町、虚ろな目で佇む人…、下を向いて直視するのを避けるのだが頭の後でも見える、感じる。
強烈な体験だった。

アメリカの水爆実験に巻き込まれ死の灰を浴びた漁船、第五福竜丸の話が日本中を駆け巡ったのは私が11歳の時だった。被爆した久保山さんの死、放射能は怖いと改めて実証されたのだ。
長崎の病院で被爆した医師の永井博士は闘病記を書き残し亡くなった。この二人の名前も私の記憶に刻まれている。
高校生の年齢になった時のことだ。当時の岸首相がアメリカと安全保障条約を交わそうとした時、暴動が起きた。革命家や学生や多くの市民が安保反対を叫び国会に押し掛けた。その人並みに押されて倒れた樺美智子さんが犠牲となった。そんな世論の動きに惑わされることなく、世論の理解も了解もきちんと得ないまま安全保障条約は調印されたという。これが平和への道だったのだろうか。
戦勝国であるアメリカと敗戦国である日本との関係は当時どのような状況下にあったのだろうか。

私の中では何故みんなが安保反対を叫ぶのか理解出来なかった。そのことがその後の日本にどう影響していくのか認識出来なかった。ただ漠然と、みんながこんなに反対するのにはそれなりの理由がある筈、と思った。しかしそれ以上知ろうとも思わなかった。
なのに社会の授業で「安保に対してどう思うか」のテーマが出題され作文を書かされた。書けない。安全保障条約が何をもたらすのか私にはまだ読み取れない。どうしようと締め切りギリギリまで悩んだ、悩んだ末に書いたのは、私の故郷がなぜ原爆の被害にあったのか、原爆を落とした国からの安全保障とは何を意味するのか分からないという率直な感想だった。そして、分からない、腑に落ちていない、納得していないことに賛成とはいえないので、私は安保反対です、と締めくくった。

今、現在も、ひとりの首相が提唱する「集団的自衛権」が国民の理解を得られないまま可決されてしまった。世論の大きな大きな反対の声は首相の耳に届かない。いや、聞く耳を持っていないのだろう。このことが未来に汚点として残り、最悪の事態さえ引き起しかねないという暗い陰を含んでいるにも関わらず、何もかもをオブラートでくるんでしまったまま突き進んでいる。
何故なのか分からない、腑に落ちない、納得できない…、だから私は反対です、と人生の終盤に差し掛かった今、また心が叫んでいる。

2歳7ヶ月の小さな肉体の無意識の底に潜んでいる記憶は、年齢とともに意識として表に出てきては、「死」とは何か、「生」とは何か、を突きつけてくる。なぜ私は今ここに存在しているのだろうか…、どのように生きればいいのだろうか、人はどんな社会を目指せばいいのだろうか、なぜ戦争をするのか、平和とは何か、意識をすればするほど深まる謎。
私自身は未だに確かな答えには行き着いていないが、もう既に、かなり確信を持って未来に向かって歩いている人たちがいる。先にある未来は闇でなく光でありたいと意識的に歩いている人がいる。その足取りの力強さに救いがあるような気が私はしている。

2-遠い記憶
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popo

Author:popo
●笹井鳩子profile

 中央林間にある大和田園幼稚園に6年、横浜鶴見の橘幼稚園に34年勤務。(内28年を園長として、2年を顧問として務める。)
長い間幼児教育の道を歩む中で、シュタイナーの人間学に出合い教育観を深める。
また、経験を通して「人は人の中で人となる」を実感する。
退職後、「自らの手で作る喜びを味わう」・「人が出会い絆を結ぶ」、この二つを実現すべく、創造と交流の場として『創造空間Lula & Popo』を開設。

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