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『軌跡』(続)■6・時代を生きる

                                ペトロポリス大聖堂



   □■□ 第6章 時代を生きる □■□  


「ガタン!」という強い衝撃を受けて身体は一瞬飛び上がり前後に激しく揺れた。
…と同時に機内の天井から何かが落ち、乗客からウォッという驚きの声が上がる。ブロック状にはめ込まれた天井の一部が衝撃の強さで外れ落ちて来たのだが、幸いにライトなどの機材の配線や細いひも状の物でつり下げられ落下はしなかった。またその直下が空席だったことも幸いした。乗務員の何人かが駆けつけ元のようにはめ込もうと試みるがかなわず、そのままそれぞれの仕事の定位置に戻り、乗客も何事も無かったかのように成田国際空港に降り立っていった。私も30時間を超えての長旅の疲れを全身ににじませながら到着カウンターへと向かっていった。

それは奇しくも8月6日の夕方のことである。
私は兄夫婦が住むブラジルに10日間滞在し帰ってきたばかりだった。
兄と私は9歳も離れている。父の後を追うかのように外交官の道を選んだ兄は赴任先のブラジルで現地の大学に通いながら語学研修をしたようだ。そして出会った友人であるブラジルの人と結婚し苦楽を共にしながら人生を歩んで来た。二人とも年老い、それぞれに病を抱えて暮らしている今、近々会いに行くからと言い続けていた私に、二人の金婚式の案内が届き「今来て欲しい」のリクエスト。
二人の娘である姪に急遽同伴させてもらい25年ぶりの再訪を果たすことができた。

過日、友人との話しの中で思い出させられたことがあった。
第2章『遠い記憶』に書き忘れたことだった。それはこの兄の体験談である。
思いがけずドキッとさせられた6日の出来事から3日たった今日、9日の記憶にまつわる出来事をやはり記しておこうと思う、69年の時を経た今。

長崎の市内から島原へと父以外の家族は疎開していた。
外国で幼児期を過ごし、ある意味裕福な生活も体験したであろう当時11歳の兄にとって、里山の田舎暮らしは苦痛であったのだろう、姉の話では学校でいじめにもあっていたらしいとのこと、本当にいじめかどうかは分からないが、なかなか馴染まないよそ者の兄が土地の子供の中にうまくとけ込めなかったのは事実なのだろうと思う。

ある日兄は家出をした。
まだ小学5年の子供が突然いなくなったので近所中を巻き込んで大騒ぎとなったがどこを探しても見つからない。父不在の中、母の動揺はいかばかりだったか知る由もないが、戦時下でもあり現代のような情報手段も無い中、ただひたすら無事を祈って待つしかなかったのかも知れない。
探し尽くして疲れ果てまんじりともせず一晩を過ごした家族の元に、兄が一人の女性に伴われて帰ってきたのは次の日の夕方遅くのことであった。その人は彼が疎開する前、長崎の学校で受けもってもらった担任だった。「いやー、本当に驚きました、夕べ遅くに誰かがドンドンドンドン玄関をたたくのでこんな時間に誰かと思って出てみたらY君じゃないですかー」と、先生は経緯を話して下さったという。それによると、どうしてもどうしても先生に会いたかったので家の人には黙って出て来た。
疎開先の生活にも学校にも馴染めず、優しくて大好きだった先生が懐かしくて逢いたくてたまらなくなったとのこと。家の金を少し持ち出し、途中までは汽車に乗り、後は線路の上を歩いて長崎までたどり着いたという。
逢いたさ一心とはいえ、おとなしい兄の思いきった行動にみんなは唖然としたという。
先生は無事に兄を家族に引き渡し、「安心しましたので私は帰ります」と帰ろうとされるのを 母は「汽車がなくなるから泊まってください」と何度も引き止めたという。もう、既に夜が深くなっていた。しかし先生は「明日は校外学習の日ですし、子供達が待っていますから」となんとしても帰ると言われ、「大丈夫、私は大人です。こんなに小さい子が長崎まで来れたのですから心配いりません、朝方には着けるでしょう」と振り切ってお帰りになったという。
それは1945年8月8日の夜のことだった。原爆投下の前日である。

「長崎に原子爆弾が落ちた。長崎が大変なことになっている」との情報が入る。
兄は泣きだし先生を探しに行くと言ってきかない。今は無理だから少し待とうとなだめられ、3日経ってから兄と母は先生を探しに長崎に行った。凄まじい光景を目の当たりにしながら先生が勤める学校や住まいを探したが破壊されたそこに先生の姿はなく、見つからなかったという。いろいろ伝手を使って探すも見つからず、結局は知人に情報提供を頼んで帰ったという。
後日「先生は原爆に遭って病院に担ぎ込まれたが、一週間、生死の境を彷徨ったあげく亡くなった」との訃報が届く。

あの時、力づくでも引き止めるんだったと母は嘆いた。
そして兄はそれから少し荒れたという。
このことは、私がかなり大きくなった時に母や姉が話してくれたことである。

今回のブラジル訪問で兄と昔話をすることはなかった。
8月が誕生日の兄は69年の歳月を経て80歳になる。彼の中での遠い記憶はいつしか封印してしまったのか、以前何度か問いかけても覚えていないということが多かったので敢えて持ち出さなかった。
本当に忘れてしまったのか、思い出したくないのかは分からない。

兄の住むペトロポリスは、リオデジャネイロから南米のいろは坂と呼びたくなるような曲がりくねった山道を登り門を通って街中に入っていくが、どこか長崎に似た懐かしい雰囲気の漂う場所である。ボルトガル領時代に皇帝が避暑地として利用したことで発展した山間の美しい街並として観光客が訪れる由緒あるところで、古くに建てられた家々は文化遺産として保存が義務づけられている。門には何年から何年まで誰が住んでいたというプレートが付けられ、そのままを維持したまま博物館や学校や住居として利用されている。

ブラジルに来て思った。
兄がここを永住の地として愛しているその理由を。
治安が悪く怖い国として知られていて、勿論そんな荒れた状態をも抱えた国ではあるが、どこの国でも悪の原因は人によらず、人の愚によるものであると思わされる。人の愚かさが人や国や世界や地球を駄目にしていくと。
私はこの旅行で沢山の人とハグをし、右ほほと左ほほを交互にくっつけ合ってキスの挨拶をしてきた。こんにちはもさようならも、初めましてもようこそも、全てこの挨拶に象徴される。
私はあなたに抱擁をし愛を贈ります、何度でも何度でも。
言葉は通じ合わなくても通じ合える言葉があると言って抱きしめてくださった方は、2 日前に弟さんを亡くされたばかりだった。その悲しみへの慰めをこめて私も強くハグをした。くっつき合った胸を通して何かが流れ合うのを感じていた。

結婚50年を祝う金婚式は結婚式のように華やかだった。兄は娘と、姉は息子と手を組み、教会のバージンロードを歩き、長年はめていた指輪で改めて指輪の交換をした。
参列者は二人の人生を讃え、感動で涙した。そして披露宴には80名もの祝いの客が顔を揃えた。
お祝いのプレゼントは毛布でと夫婦は依頼し、自宅には山のように毛布が届けられていた。
暑い国ブラジルには暖房の備えが無い。しかし高地にあるペトロポリスの冬の夜は寒い。だから貧しい人に毛布をプレゼントするために施設や病院に届けるのだという。
2人への祝福の気持ちはこんな形で実を結んでいる。兄たちが特別なのではなく多くの人の意識の中にある行為のようで、殆どの人が高価な物を一枚ではなく、ひとりでも多くの人にと量を選んで持ってきてくれる。そんなに大げさなことではないかも知れない人間愛に根ざした行為に私はただただ感服した。

そしてさらに思う。
ここに集う人々には国境がないのではないかということを。
ブラジルはその昔、ポルトガルの植民地として開拓され、ヨーロッパからの移民を始めとし、西から東から北から南から多くの人が連れてこられたり、移住してきたりして形成された国である。
そんな人々が長年の間に様々に結び付き合っているので、二世、三世、だけでなくハーフ、クオーターといった混血の人も多く、1人の血の中にはいくつもの民族の血が流れていたりする。
兄のブラジルの親族は30人にも達し、いろいろな国にルーツを持っている人が集まるので面白い。姉にはドイツ人の血が流れている。姪にはドイツと日本、そしてブラジルという国が混ざり合っているがもっと遡れば更に複雑になっていくかも知れない。
一人の人間の中で世界が統一されている。そういう風に考えている内に、シュタイナーがいう「統一体としての人間観」に思いがいき着いた。統一体としての自分を認識すれば意識が変化し、取り巻く世界との関係も変わっていくだろう。とても難しいことだけど、世界平和への途はそのことと深く関係しているのではないだろうか。
時代を生きる私たちの課題はこのことにつながっているような気がしている。ただそのことを世界平和と結びつけることは気の遠くなるような作業であるに違いない。しかし人間である以上、この途を歩くしかないのである。

ペトロポリス1
(photo:Sasai@ペトロポリス)

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『軌跡』■5・平和への希求



   □■□ 第5章 平和への希求 □■□


重い扉は最後まで開かなかった。

自分の身に起きた悲惨な体験は心の奥にしまって決して開けようとしなかった父だったが、戦争体験者の多くが父同様に心の扉に鍵をかけ、他人に開けられるのを拒んだのではないだろうか。戦争のことを語り継ぐ人はあまりにも少ない。
この世で一番尊いもの、それは生命の筈…。なのに生命が一番軽んじられるのが戦争なんだと思い知る人たちだ。
現代は高齢化社会、その大半の人たちは悲惨な戦争の体験者たちであろう。
話せない、話したくないほどの体験をされたのかも知れない。気の遠くなるほど昔のことではない、ほんの70年ほど前のことだ。
私たちはつい3 年前の大震災さえ過ぎ去ったこととして忘れかけている。
それよりもずっと前に起きた戦争に対しては認識を鈍くし、無かったことのように日常性の中に埋没して生活している。
私自身も戦争についての意識は遠のいていた。
世界の至る所で今現在も戦い合っていることを、対岸の火事を見るかのような目で余所事として見ていた。
平和ボケと言われるかもしれないが、日本は過去の戦争を抜け出て高度成長を生み出し平和な社会を作り出し得たと思っていた。
しかしそうではないことを、今気づかされている。

今回文章にして記したことは、私と私の家族の個人的な体験談でしかない。
それだけに公開することにはかなりの抵抗があった。
しかし、戦争という過酷な時代背景の中で、外地から我が子に「鳩子」(やすこと読む)と名付けた父の思いや意思を受け取ると、かなり切実に平和を希求していたのではないかと思う。戦乱の中に生まれた我が子に未来へのメッセージを託したかったのではないかと思う。
戦争の悲惨さを知っている一人として、二度と戦争などしてはいけないと叫んだに違いないと思う。

人間の愚によって引き起される戦争なのだから、一人一人が賢くなって良いか悪いかをきちんと見分けられるようにならなければならないと、先人達は言っている。
戦争をしてはいけない、戦争に加担してもいけない、人を殺す道具を造ってはいけない、勿論それをよその国に輸出してもいけない、なぜなら、私たちは殺し合うために生まれたのではないから。地球上の全ての人たちが愛と畏敬でつながり合い、真の平和を求める同志でありたいから、だから軽々しく危うい方向に突っ走らないでほしい。もっともっと真剣に慎重に未来を見据えて、愛をもって欲しい、平和を希求して欲しい。

勝手な思い込みではある。だがいつか父母の歩いた軌跡を文にしなければならないという気がしていた。
長年心に秘め、その時がいつ訪れるのか慮っていたが、急に「今しかない」という心境に陥り、慣れないパソコンに向かっている。
ここに記したことの殆どは、寡黙な父ではなく、社交的で昔語りが好きだった母の記憶と体験談によるものである。
最後まで父からは戦時中の具体的な話しは聞けなかったが、もしかしたら母にだけはほんの少し重い扉を開いて心の内を見せていたのかも知れない。

私は長年父母に寄り添い、同伴した。
そして、どんな状況下にあっても気高さを失わなかった父母を尊敬している。



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『軌跡』■4・重い扉



   □■□ 第4章 重い扉 □■□


世界規模の大戦争は拡大化し東西に広がっていった。

家族を守り幾多の危機をかいくぐりながらやっと日本に帰り着いた父は、その安堵感からか東京に安住の地を求めようとしたようだった。
池袋にほど近い椎名町というところに、周りからはお屋敷と呼ばれるほどの大きな家を建てたのである。
ソビエトを含む西側諸国が戦火を激しくさせている中で、まだ全面戦争に突入していない日本にはいくらかの余裕があったのだろうか、父自身にも東京は安全という意識が働いていたのかも知れない。戦時下にある中でとにかく父は椎名町に大きな家を建てた。

それと期を同じくして、父は突然外務省を辞めた。それまで外交官として歩き続けていた父の突然の離職。何があったのだろうか…その理由は母さえも知らない。
もしかしたらその退職金を全てつぎ込んで家を建てたのかものかもしれない、などと推測するが定かではない。ただ、父の思いの中には、ひとり暮らしの母親を放っておく訳にはいかない、引き取って同居したいと強く思っていたのは確かなようだ。その思いの強さが家を大きくさせたのかも知れない、もしかしたら母親への息子としての見栄だったのか、または一世一代の親孝行をしたかったのだろうか。
男兄弟が多い中で次男の父だったが、既に軍隊に入隊するなどしている兄弟に代わり、自分が母親を守らねばと気持ちが逸っていたのだろう。

しかし思惑は外れ東京は安住の地とはならなかった。
1941年の12月に日本が真珠湾攻撃をし、大国であるアメリカに宣戦布告をしたのである。
戦争は一挙に全世界へと拡大していった。同盟を結んだ日本・ドイツ・イタリアはアメリカやイギリスなどの連合国軍を敵にまわして太平洋戦争へと突き進んでいく。
同じ年のまだ浅き春に帰国したばかりの家族も、キリキリと戦争に巻き込まれていった。

東京の空に爆音が轟き、空襲警報が鳴り響くようになっていったのだろう、危機感を募らせた
父は、新しい家が完成してまだ1年も住まないうちに家族を故郷の長崎に疎開させた。
その後、東京は終戦の年の3月、アメリカ軍の夜間爆撃により焦土と化した。
いわゆる東京大空襲である。
椎名町の家もそのときに焼失してしまっている。
後で知ったのだが、家を建てる時、地主さんが土地を手放さなかったため仕方なく上物だけを建てたというのだが、そのために家族は全財産を失い一文無しになって放り出されたのである。
焦土の中でも土地だけは残るが、その他のものは殆ど焼け落ち破壊され何も残らない。
土地さえ持っていれば何とかなる、という土地神話はこの体験から生じたのかもしれない。

第二次大戦は日増しに激しさを増し日本中の人々が何らかの形で戦争に加担させられていった。
若者は戦いの最前線へ送り込まれ、命を落とした。
父は軍属の大佐級として満州の北東に位置するハイラルにホテルの支配人として派遣された。
ロシア語が堪能ということで何か特別の使命があったのかも知れないが、父は生涯、心の扉を固く閉めたまま決して開けようとはしなかったのて゜真実は全く分からない。
ソビエト軍によってホテルは爆撃され、父は捕虜となりシベリアに抑留された。
爆撃によって頬に深い傷を負い、過酷な収容所生活で重度の胃潰瘍を患い、吐血を繰り返し失神した父を、一緒に捕らえられていた部下の人たちが身体で必死に温めてくれたという。
極寒の地、シベリアでのことである。
部下の人たちに支えられた父は、その気持ちに応えねばと絶食療法を試み、少しずつ治癒していったという。死と直面した父は一命をとりとめたが、同じ病にかかっていた部下が、病状は軽かったにもかかわらず亡くなってしまった。私の身代わりになって死んでいった…と、父は後日、この出来事を何度も話してくれた。よっぽど辛く悲しいことだったのだろう。

1945年の8月、戦争は終結した。
勝算ありと仕掛けた戦いだったのだろうが、広島・長崎への二度にわたる原爆投下を受け、敗戦を認めざるを得なくなり、もの凄い数の命と引き換えに、考えられないほどの犠牲を伴って、やっと戦争が終わった。

終戦となったことでシベリアの捕虜たちは釈放され、貨車に積み込まれて新京までたどり着いたという。そこで父は知人から薄い布団を一枚貰い受け、それに包まりながら長い時間をかけて帰還してきた。
それは終戦から2年の後であった。

汚れた服、伸びた髭、頬の傷、そして眼光の鋭い人が疎開先に現れたのは私が4歳の時であった。
家族がどこに疎開したのか知らなかった父は尋ね尋ねてやっとたどり着いたという。
初めて目にした父の風貌があまりにも怖かったので、私は恐怖心を持って父を迎え入れた。

私たち家族の戦後はここから始まる。

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『軌跡』■3・生々流転



   □■□ 第3章 生々流転 □■□


 世界中が激しく動いていた。きな臭い匂いが漂い、いつでも勃発寸前の地鳴りのようなものが鳴り響いていた。

外交官だった父は、母と姉(7歳)・兄(5歳)を伴い、それまでの任地であったラトビアの日本領事館を離れ次の赴任先であるスウェーデンへと向かっていた。
1940年に入ったばかりのことである。途中、ベルリンを経由したが、その時は既にドイツ兵が移動し始めていて戒厳令が敷かれたベルリン市内のホテルは電気が消されていた。
もちろん、外に出られる状況ではない。1940年というと日本・ドイツ・イタリアが三国同盟を結び、戦時色が色濃い時である。
ベルリンからデンマークへ、そしてスウェーデンには船で渡った。

私の家族が乗った船のすぐ後に出航した船は撃沈されてしまった。
危機一髪で難を逃れた訳だが、しばらく赴任していた独立国ラトビアも、家族がその土地を離れて何ヶ月もしないうちにソ連が侵攻し侵略されてしまった。
ソビエトはバルト三国(ラトビア、リトアニア、エストニア)を相次いで占領してしまったのである。同じ頃、ナチス・ドイツはパリを陥落させていた。
既にポーランドを占領していたナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策は始まっていて、そこから逃れようとリトアニアには沢山のユダヤ人が逃れてきたという。

当時リトアニアの日本領事館で領事代理をしていた杉原千畝外交官は現地を離れるまでの2ヶ月間で大量のビザを発給し彼らの命を救ったと、その偉大な行為がクローズアップされたのは最近のことである。
父と杉原氏とは全く同時期に、隣り合って外交官という職務を遂行していたかと思うと、時代背景がより鮮烈に浮かび上がってくる。大変な時代を生き抜いていたのだなと改めて思い知る。
外交官という役職なのでラトビアでは現地のコックさんや使用人がいたそうだが、中でもソーニャというメードさんとは家族のように親しく暮らしていた。子供思いで優しかった彼女が無事なのかどうか、母は生涯にわたって懐かしんでは安否を気遣っていた。

ほんの少しのタイミングのずれで私の家族の命は危うくなっていたが、ほんの少しのタイミングのずれで守られてもいた。

ストックホルムで下の兄が生まれ、日本でも戦争が本格化し始めているという情報が飛び込んできていた。
スウェーデンは中立国としての宣言をしているのでここにいる限り心配はないが、父には留まることが出来なかった。日本人としての血がそれを許さなかったのであろう。
帰国願いを受理され、1 年滞在しただけでスウェーデンを離れ帰国の途についた。
1941年を迎えて間もなくのことだったという。

当時のスウェーデンでは、驚いたことにみそ汁を缶詰で売っていたと母から聞いた。
醤油や味の素まであったというが本当だろうか、とにかくそれらを持って船でレニングラード(現在はサンクトペテルブルグ)に渡り国際列車でモスクワへ。
モスクワでは日本人の奥様たちがおにぎりを差し入れてくださった。

外交官というと国を代表しての職務である。VIP 待遇であるのは当然であったのだろう、父たちは国際列車の豪華な個室を提供され、専属のコックが腕を振るって日本食を作ってくれていた。
しかし、ここから状況は一変する。
国際列車は突然停車し、故障をしたとの理由で普通列車に乗り換えさせられたのだ。
一等車の個室ではあったが食事はロシア人と一緒に食堂車でたべることになった。その食事は固いパンとギトギト油の浮いたスープ…、全く口に合わない。
幸い個室だったこともあり、外に出しておいたコチコチのおにぎりを温め、缶詰のみそ汁と国際列車のコックが焼いて持たせてくれたカステラを食べて過ごしたという。

シベリア鉄道を列車はひた走る。

途中駅で突如5~6 人のゲーペーウー(ソヴィエト秘密警察)が乗り込んで来た。
そして、乗客の荷物を片端から開け容赦なくかき回し始めた。その中のひとりが私の家族をめがけてくるなり有無を言わさず荷物を開け始めた。
外交官の私物(トランクには針金がかけられ封印がされている)を開けてはならないと国際条約で決まっているにも拘らずパチンパチンと針金を切っては開けていく。
大柄の厳つい女性であったが、強面の強硬な態度が緊張と萎縮を強いる。

父は帰国の際、一人の新聞記者から何やら分厚い封筒を預かっていた。 
それを見つけられるのではないかと母は怯えていた。
父はその封筒を調べ終わったトランクの中にすばやくすべりこませたので見つかるのを避けることができた、と母は私に話してくれたが、当時8歳だった姉の記憶では、父が隠したのは生後半年の赤ん坊のおむつの中だったという。どちらが正しいのかそのことを知る人は今は誰もいない。

父はロシア語が話せた。
そんなことも幸いしたのだろう、無事、マンチュリーのロシア側国境に朝、到着する。
厳寒の土地は零下何度という凍えるような寒さであったらしい。そこで夕方まで待たされ別の列車でマンチュリーの満州側国境に向かった。
列車は窓のブラインドを降ろし、中の明かりを消し、ローソクの灯りで移動する。
駅に着いたのは夜中だった。
なのに駅では何人かの日本人が出迎えてくれて日本人経営の旅館に連れて行ってくれた。
そこで三日間ゆっくりと休み、満州鉄道でハルピン・新京を経て、大連から船で故郷の長崎へと帰り着く。

それはスウェーデンを出発してから一ヶ月後のことであった。

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『軌跡』■2・遠い記憶



   □■□ 第2章 遠い記憶 □■□


 あの瞬間を私は知っている。
遠い遠い記憶ではあるけれど、確かに私の中に刻み込まれ、私の中で生き続けている記憶。
ガヤガヤとした人の声、近所の人たちが小高いところに集まって何やら騒いでいる。
私の目線は高いところにあるから、きっと誰かに抱っこされているのだろう。
大人たちが指差す方には、煙のような黒い色がかたまりになって広がって見える。夕焼けとは違う不気味な赤さも混じって見える。

私はその時はまだ2歳と7ヶ月だった。そんなに小さいのだから記憶に残っている筈がない、と誰かに言われた。
記憶と信じているそのことは、後日人から聞いた話が印象として残り記憶と錯覚しているのだと。
そうかも知れない…と私も何度もそう思った。しかしどこかでそれを否定するものがある。いや確かに私はあの瞬間に立ち会っていたんだ…と。

昭和20年8月9日、広島に続いて長崎に原爆が落とされた時のことである。

原爆という言葉を聞くたび、記憶だけではない何かが私の奥で疼きだす。それは感覚体験といえるものかも知れない。
いつもとは違う異様な雰囲気やざわめきは抱かれている私にも伝わった。

太平洋戦争の渦中に長崎市内で生まれた私は「ここにいては危ない」と、長崎から直線距離で40キロ離れた島原の西有家という所に疎開し、農家の別棟を借りて生活をしていた。
私が生まれた時には既に任地に赴いていた父は、離れた所から私に「鳩子」と命名し、出生届を出し、家族に疎開するよう指示をしたが、私が4歳になるまで帰ってこなかった。私は父を知らずに育っていた。

疎開先は自然豊かな田舎だった。
そんなのどかな田舎の上空にも爆音が轟く。緊迫した空気が張りつめる中、抱きかかえられて農家の敷地の片隅に作られた手作りの防空壕のなかに逃げ込んだ、…がこれも感覚記憶として残っているのかも知れない。しかし小さい体の奥底に刻み込まれたこれらの体験は、記憶か知覚か曖昧なまま、遠い記憶となってその後の私に大きく影響をしていくことになる。
幼い私の中に沁み込んだ訳の分からない緊張は、成長の過程で様々に鎌首をもたげていった。

ただ単に極度の臆病者なのかもしれない。しかしこれも、このことをさておいて思い当たる節がない。とにかく、暗いところや怖い話、人が傷つくことやけんかなどは、聞くことも見ることも私には耐えられないことだった。そんな場面に遭遇すると一瞬にして体がこわばってしまう。
なので他の人よりも先に敏感にキャッチし遭遇しないようにするしかないのだが、避けられないこともある。

こんなことがあった。無類の映画好きだった母はまだ8歳の私を映画に連れて行った。母の妹である叔母と従姉妹も一緒だった。まだ映画が何たるかを知らない私は、大好きな従姉妹と一緒なのが嬉しく、気持ちがはしゃいでいた。映画は忘れもしない「黄色いリボン」という有名な西部劇である。騎兵隊とインディアンとの戦い…、私は終始うつむいて見ないようにしていたのだが、時々上目遣いに画面を見て、また下を向くを繰り返していた。。しかしとうとう大声で泣き出してしまった。すると私の鳴き声につられて従姉妹まで泣き出した。母たちはあの手この手で泣き止めさせようとしたが泣き止まず、とうとう映画館を退出することになった。今考えると申し訳ないことをしたと思うが、とにかく怖かった。それ以来、大人になるまで映画を見に行けなかった。
テレビが普及し始めた頃、大人たちが夢中になって見ていたレスリングやボクシングも苦手で、私はその場からひとり離れてその時間が過ぎるのをじっと待った。

長崎に原爆が落とされたのは偶然だったと聞いたことがある。
聞くところによると長崎ではなく、別なところを原爆投下の場所に選んでいたらしい。
だがその上空を雲が覆っていて空から下が見えない、旋回しているとたまたま運悪く晴れていたのが長崎だったのでそこに落としたというのだ。
これは人の話で、長崎は二番目の目標地であったらしい。しかし結局のところ、どこに落とされていてもおかしくない話なのだ。

私が小学6年生の時、原爆資料館と平和祈念像が建立された。
私は先生に引率されて見学に行った。
館内に入るとき恐怖心が走った。見たくない見たくないと心で叫んだが列になっての見学なので逃れられない。
容赦なく飛び込んでくる。目を背けても飛び込んでくる。ガラスや金属、鉄までも、ドロドロに溶けて固まっている。どれほどの熱風だったのだろう。黒こげの死体が転がる写真、廃墟となった町、虚ろな目で佇む人…、下を向いて直視するのを避けるのだが頭の後でも見える、感じる。
強烈な体験だった。

アメリカの水爆実験に巻き込まれ死の灰を浴びた漁船、第五福竜丸の話が日本中を駆け巡ったのは私が11歳の時だった。被爆した久保山さんの死、放射能は怖いと改めて実証されたのだ。
長崎の病院で被爆した医師の永井博士は闘病記を書き残し亡くなった。この二人の名前も私の記憶に刻まれている。
高校生の年齢になった時のことだ。当時の岸首相がアメリカと安全保障条約を交わそうとした時、暴動が起きた。革命家や学生や多くの市民が安保反対を叫び国会に押し掛けた。その人並みに押されて倒れた樺美智子さんが犠牲となった。そんな世論の動きに惑わされることなく、世論の理解も了解もきちんと得ないまま安全保障条約は調印されたという。これが平和への道だったのだろうか。
戦勝国であるアメリカと敗戦国である日本との関係は当時どのような状況下にあったのだろうか。

私の中では何故みんなが安保反対を叫ぶのか理解出来なかった。そのことがその後の日本にどう影響していくのか認識出来なかった。ただ漠然と、みんながこんなに反対するのにはそれなりの理由がある筈、と思った。しかしそれ以上知ろうとも思わなかった。
なのに社会の授業で「安保に対してどう思うか」のテーマが出題され作文を書かされた。書けない。安全保障条約が何をもたらすのか私にはまだ読み取れない。どうしようと締め切りギリギリまで悩んだ、悩んだ末に書いたのは、私の故郷がなぜ原爆の被害にあったのか、原爆を落とした国からの安全保障とは何を意味するのか分からないという率直な感想だった。そして、分からない、腑に落ちていない、納得していないことに賛成とはいえないので、私は安保反対です、と締めくくった。

今、現在も、ひとりの首相が提唱する「集団的自衛権」が国民の理解を得られないまま可決されてしまった。世論の大きな大きな反対の声は首相の耳に届かない。いや、聞く耳を持っていないのだろう。このことが未来に汚点として残り、最悪の事態さえ引き起しかねないという暗い陰を含んでいるにも関わらず、何もかもをオブラートでくるんでしまったまま突き進んでいる。
何故なのか分からない、腑に落ちない、納得できない…、だから私は反対です、と人生の終盤に差し掛かった今、また心が叫んでいる。

2歳7ヶ月の小さな肉体の無意識の底に潜んでいる記憶は、年齢とともに意識として表に出てきては、「死」とは何か、「生」とは何か、を突きつけてくる。なぜ私は今ここに存在しているのだろうか…、どのように生きればいいのだろうか、人はどんな社会を目指せばいいのだろうか、なぜ戦争をするのか、平和とは何か、意識をすればするほど深まる謎。
私自身は未だに確かな答えには行き着いていないが、もう既に、かなり確信を持って未来に向かって歩いている人たちがいる。先にある未来は闇でなく光でありたいと意識的に歩いている人がいる。その足取りの力強さに救いがあるような気が私はしている。

2-遠い記憶
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Author:popo
●笹井鳩子profile

 中央林間にある大和田園幼稚園に6年、横浜鶴見の橘幼稚園に34年勤務。(内28年を園長として、2年を顧問として務める。)
長い間幼児教育の道を歩む中で、シュタイナーの人間学に出合い教育観を深める。
また、経験を通して「人は人の中で人となる」を実感する。
退職後、「自らの手で作る喜びを味わう」・「人が出会い絆を結ぶ」、この二つを実現すべく、創造と交流の場として『創造空間Lula & Popo』を開設。

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